忙しすぎるとお金を搾取されるというムゴイ話


ラリーマンをやっていると、様々なプロジェクトや

案件、その納期などで多忙を極め自分の時間が埋没

することが往々にしてある。

 

しかし、ふと気づくとただ目の前の作業をやっているだけで

頭は働いておらず、ただひたすら体を「機械」にして

動かしているだけだと気づく。

 

あれ?俺何やってんだろ?

 

とある朝、鏡の前でクマの出来た瞳を見てそう感じる。

 

僕は20代前半を、営業という職種をして過ごしたことが

あるが、この時に多忙を極め自分の時間が皆無だった。

 

その時に感じた、お金搾取型無理ゲー人生の話をしようと思う。

 

〇この記事はこんなあなたにオススメ
・普段仕事などで忙しすぎて死にそうな人
・忙しさから抜け出す方法を知りたい人
・自分の時間を確保したい人

 

忙しいととりあえず思考停止に陥る

 

飛び込み営業もこなしていた20代、

会社の中で結果を出し、「社長賞」みたいなものも

もらっていたが、とにかく平日、休日関係なく

飛び込み、飛び込みの連続だった。

 

(ちなみにウォーターサーバーとか健康食品とか

 かんとか、ガンガン売ってたよ)

 

新規事業の営業部で結果を出してから、

2年目以降はエリアチーフという立場を任されるようになった。

 

僕は、具体的に一つの「市」単位のエリアを任されていたから

それはもうめちゃくちゃ広大な範囲の顧客を受け持っていた。

 

何かあればアフターフォローに駆け付けたり、後輩がやらかしたクレームの処理

をしたり、未払いの顧客からあれやこれやとお金を回収していたりした。

 

はじめはものすごく充実しているなと思っていたが、

いつの日か自転車操業のごとくエリアを回っても回っても

1人では追いつかないようになり、体がいくつあっても

持たないようになってきた。

 

あの時の様子はかなり異常だったと思うが

当の本人は忙しさにかまけて睡眠もそれほど

取れず、頭がボーっとした状態で仕事をしていた。

 

そしてある朝、鏡に別人が映り込んでいた、、、

 

そんな忙しいのが続く日々、

ふといつものように朝を迎え

鏡の前に立つとそこには目の下にガッツリと

クマをこしらえた一人のやつれた青年がたっていた。

 

まさに、カフカの小説「変身」の冒頭の一文のごとく、

まったく「自分」とは異なる存在であると恐怖を感じた。

 

ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から

目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫になっているのを発見した。

(フランツ・カフカ「変身」冒頭の一文)

 

みたいな、、、。

 

その時初めて自分が思考停止に陥った一個の残念な個体であると痛感した。

 

やばいな、、。このままじゃ飼い殺される。

 

そこまで思ったかどうかは思い出せないが

兎に角この延長線上に輝かしい未来はないと確信した。

 

時間を捻出するため、営業をサボることにした

 

このままじゃ精神に異常を来すかもしれない。

 

じゃあどうしたら良いだろうかと考えた結果、

いつも回っている営業を徐々にサボり、

サボった時間で思考したり本を読むことにした。

 

この時の情景は今でもはっきりと覚えている。

 

本を読むことで、そして考えることで

スポンジに豊かな水が沁みわたっていくように

何かメンタルが復活していくのを感じた。

 

もともと、自分の感情や考えていることを上手く

コトバで表現するのが上手なほうではない。

 

だから、かなり心の中に言いたい思いをため込んでしまい、

ヘドロのように腐って、それが自分の精神に悪さをしていたのだ。

 

そのヘドロを除去する洗浄剤としての作用を本が担ってくれていた。

 

芸人、作家の又吉直樹さんは

「本が読める限り、僕は生きていこうと思う」

と彼の好きな作家、中村文則さんの小説のオビに書いている。

 

僕は、ニーチェの「永劫回帰」のごとく毎日毎日

代り映えのしない、それでいてめちゃくちゃに

激務で思考停止に陥る仕事から逃れるための読書により

知恵を拝借することができた。

 

サボることが功を奏したのだと思う。

 

多忙を極めるとお金が浪費する方向へ進む

 

多忙を極めた結果、お金を使う場面で

正常な判断ができなくなり、結果無駄遣いが

増えて手持ちのお金がどんどん減っていく可能性が

ある。

 

何を隠そう、僕がその張本人で、当時は本当に

お金に工面していたのを思い出す。

(他にも理由はあるのだが)

 

だから知らず知らずのうちに「多忙さ」が

あなたを金銭面からも搾取しているかもしれない。

 

どうやったら自分の時間を取り戻せるのか

 

ベルクソンという哲学者がいた。

 

彼は「時間と自由」という著書の中で時間の概念の

ことを述べている。

 

現代人は得てして「時間」というものを

「空間的」に捉えているのだと。

 

スケジュールに穴埋めをするかのように

予定をどんどん入れ込んでいく。

 

だから一見したら誰しも平等に1日24時間が

与えられていてそれをどう使うかが「時間」を

管理することであると思われがちだ。

 

しかし、ベルクソンはそもそもそのような時間の

概念を疑った。

 

誰しも平等に与えられた時間など存在せず、

本当に自由な時間とは主観的な時間であると。

 

自分が没頭できることをやっているとき、

とても充実していてあっという間に時間が過ぎ去って

しまうことがある。

 

逆に、つまらない時間を過ごしていると

過ぎる時間というのはダラダラとしていて長い。

 

この充実した時間を過ごしている人と、

つまらないダラダラした時間を過ごしている人では

時間の「質」がもののみごとに違ってくるはずだ。

 

同じ24時間を過ごしていそうで、まったく違う時間を

過ごしていると思う。

 

だから、ベルクソンに倣い僕が言いたいのは、

多忙を極めて何も手につかないのであれば、

まずはそれを手放して(サボって)空いた時間で

思考に耽ったりやろうと思ってやれていないことを

やってみてはどうかということだ。

 

マジメな人なら、サボると聞くと急に

拒否反応が出るかもしれないが社会人とは

手の抜きどころを上手に見つけた人が強いと思う。

 

充実した時間を過ごせば、これからどうするかの

アイディアがポンと出たり、本当にやりたいことを

見つけることができたりする。

 

そうやって搾取される側から上手に時間やお金を

コントロールする側に回れば人生のスパイラルは

徐々に良くなってくるのではないだろうか。

 

それにしても自転車操業のつまらない毎日を

送っているのであればどこかで「エイヤ」は

必要になってくると思う。

私たちの行為が

私たちの人格全体から出てくるとき、

私たちは自由である

ベルクソン

 

ボーっとしてきたら、エイヤ!

 

ごーせん

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